「我思う、ゆえに我あり」の境地は悩乱―真理の追求もほどほどに 


デカルトは、すべてのことを疑い、追求した。彼は有名な「我思う、ゆえに我あり」という言葉を残している。
何でも鵜呑みにしないことは大切だが、この名言はつまり「自分は存在するってこと以外分からなくなっちゃった(;゚∇゚)」ってことである。
日蓮大聖人のいう、法華経を誹謗することに対する厳罰、「頭破七分(何が正しいか分からなくなってしまうこと)」になんとなく似ていないだろうか。

疑うことも、時には必要だが、信じることも大切なこと。
大聖人はこういわれている。
「私たちの知恵はあまり役に立たない、ただ熱いか冷たいかがわかるくらいの知恵があるならば、善知識(正しい方向に導いてくれる友人)こそが大切である」と。
本当に正しいもの(=自然の真理・法則)が、普通の人、ましてや末法の衆生にわかるはずがない。
※法華経では、釈尊の入滅から2000年後には末法をむかえ、それまでの仏教が通用しなくなるとされる。
具体的には、末法に生まれる衆生(人々)は機根が劣っているため、これまでの教え(法華経以前のお経)では、成仏できないということである。

法華経では、正しい教えへと導いてくれる、善知識や法華経にであうこと、そして、法華経にであえてもそれを信じ、しっかり保つことは、須弥山を投げ飛ばしたり、枯れ草を背負って劫火の中に入って焼けないことよりも、さらに難しいこととされている。

出会えてよかった。法華経にめぐりあわせてくれた、諸天に感謝します。

自戒をこめて
三浦 啓佑

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